赤裸々プロフィール1

プロフィール

生まれ育ちは桐箱入り

ごきげんよう、高島牧妙です。

京都市にて父50歳、母40歳で

生まれる。3つ違いの弟がいるから

高齢出産とタフに育ててもらったことに

感謝している。

3歳から日本舞踊

アレが習いたいとテレビを指差ししたのが

3歳。日本舞踊だった。

6歳で祇園甲部歌舞練場での初舞台。

20歳で華道、嵯峨御流正教授 授与。

日本の伝統文化が好きだった代わりに

ピアノはまったくダメ。先生にピアノの

蓋をいきなり閉められる痛い思い出がある。(指、ちぎれるかと思った)

家で練習しない私が悪いんだが。

男女雇用機会均等法がない時代

当時はよほどなりたい職業があれば別だが、一般企業に就職したいとなると、短期大学卒か高校卒のほうが就職率がよかった。

迷わず女子大の短期大学部に進学。

2年間で選択した科目が多すぎたのかアルバイトと大学だけの日々を過ごしながら心の中ではとてもいい企業に就職しようと単独行動で就職活動をした。

説明会前に数社の企業訪問をした。けっこう相手にしてくださる。

大阪のS社とR社に内定をもらうも、3社のうち京セラに就職を決める。当時の入社試験や面接については、次号で書き記すのでお楽しみに。

稲盛和夫名誉会長との出会い

入社式に配属先が全員発表になる。

名前を呼ばれて「総務課」と聞こえた。

で、何をするんだろうと思った瞬間

「本社受付を命ずる」

この私が?受付?

務まるのだろうか?不安と驚きが

瞬時に混ざると頭の中は白くなり、

顔は赤くなることを知った。

経営陣の真ん中に稲盛会長の姿見、そして

厳しい表情で訓示があった。

こうして私は稲盛氏の経営哲学の下、

仕事用パンプスがわずか1ヶ月で

へたるような受付業務に従事した。

見合い結婚と寿退社

初めてのお見合い。

そして今では「それなあに?」と

言われるであろう寿退社をした。

要するに結婚で円満に退職しますって

こと。今の時代には考えにくい退職。

受付というのは華があったようで退職までの1ヶ月間、毎日送別会をしてもらった。

あのような夢みたいな日々はそうそう

ない。毎日花束を抱えて帰宅するんだもの。

波瀾万丈の始まりの気配

10月2日結婚式。

10月17日脳梗塞で父倒れる。

10月21日父他界。

ひと月に結婚式と葬儀告別式。

母はどれぐらい大変だったか的確な

言葉は見つからない。

転勤で関西を離れる

まったく土地勘もない、友人もいない

愛知県へ元夫の転勤により移動。

母のことを思うと後ろ髪を引かれるのは

当たり前だった。

引越し荷物も片付いた頃に

寿退社したはずの京セラから

再度声をかけていただいた。

まだ本社内の全社員の座席位置と

最寄りの内線番号がしっかり残って

いたので仕事はしやすかった。

ただ、今度は宝飾の営業である。

独学で宝石を学ぶ毎日だった。

寂しさをかき消すように

国政モニターを契機に県政、市政、

NTT、郵政省他20以上のモニターを

経験し、考える力とモノ書き修行。

作家との出会い。そして名古屋最古の

【北斗】にて同人作家となる。

すでに何足かの草鞋を履きながら

愛知県を楽しむようになる牧妙。

1992年春、待望の懐妊。

新卒から寿退社、そして再びお声を

かけていただいた京セラ株式会社を

円満退社することを決意した27歳春だった。

続きはママになる高島牧妙について

お付き合いくださいませ。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

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